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「今回のアルバムは、エフェクトが少ないんだよ。ダブっていうのは、ある種の異空間を狙うもの、別の雰囲気を醸し出すものな訳だけれど、今はメンバーがいて、出している音の魅力のほうが大きい。だから、今、音を出している居場所から別な場所を見せたくないんだ。あんまり音をひん曲げたり自分の居場所をリミックスしたくないなって、そういうのを再認識した。どこにも行けねえぞって。それになんかね、幻想性とかさ、そういうのが自分に通用しなくなってきてんだよ。テレビでキツいニュースを観るにつけ、自分の身の回りで、音楽やってる人だったり知り合いだったり、今のメンバーとこういうことをやってたり……人がいて、そこで起きていることのほうが魅力あるんだ。今はそういうのを大切にしたい。演奏の善し悪しは置いといて、一人一人がやってること、そのものが一番いいなって。レコーディングをして、新しい魅力を知ったよ。俺自身も変わったよ。自分の中で、もっとナチュラルな音を出したいって思うようになったのはね」
http://www.overheat.com/riddim/280/280.kodama.html
要するに極論すれば、最小限のフリーター労働をこなしながらネット生活に浸って暮らそうと、ローコストでプアーシックな服を工夫して、陽気に街を流して日々をやり過ごそうと、私たちは企業のために働いているのである。消費と生産を限りなく瞬時に直結させようとするのが、今日の資本主義の課題といっていい。消費を誘引する広告に生産が従属している、とさえいえる。そういう「工場」の中で私たちは皆生きているのである。そしてそれを誰も疑っていない。
そのことを表す格好の例が次のようなケースである。
「アフィリエイト」という新手のネット・ビジネス手法が急速に広がっている。自分のホームページやブログで自分自身が気に入った商品についての簡単な感想や紹介を掲載し、それを見た訪問者が品物を購入すれば、ポイントがためられる仕組みのことである。
すでに、たくさんの企業からの出稿を集めて、個人に広告情報を手配するプロバイダもある(A8.net)。Amazonや楽天市場のような大手のマーケット・サイトは、それぞれ独自のアフィリエイト・プログラムが少し前から設けられていたが、専門のプロバイダが違うのは、数多くのジャンル別プログラムやさまざまな売れ筋ランキングが乗せられていることだ。特別な商品知識や鍛えられた評価能力がなくとも、消費者がこのビジネスに参入しやすいように工夫されているのである。
こうしたサイトに登録しリンクを設定しさえすれば、さっそくさり気ないコラムのようにレイアウトされた広告のフォーマットが送られてくる。そしてOLや主婦が(もちろんサラリーマンや主夫でも)帰宅後やちょっとした時間に、最近手に入れたものへの何かポジティブな意見でもそこに書き込んで、訪れたものがその気になってクリックし実際に商品が購入されたことが確認されれば、自動的にポイントが加算される。つまり、少しの手前でいくらかのサイド・ビジネスになるというわけだ。
アフィリエイトそのものはアマゾンが始めたビジネス・モデルの一つの形。企業間の相互乗り入れ的な広告形態である。それが誰でも簡単に作れるブログのスタイルが急速に広まって以来、個人にまで拡大されたということだろう。もともとネット書店から出発したアマゾンは、読者に読後感のメールを募って掲載し購買欲を刺激してきたから、両者が合体した形といえるかもしれない。
登録者の一人一人が上げる利潤はささいなものである。ある女性誌のマネー特集によれば、山梨県の主婦二十六歳の話で一月せいぜい五〇〇円から一〇〇〇円くらい。こういう形の気軽な紹介で手を出す商品の額には限度があるからだ。それでもさらに波及すれば、この簡便さのスキに詐欺商法が介入してくるのは目に見えている。これは現代の内職手仕事であり、もうかつての封筒貼りに近いというしかない。
しかし、こうしたビジネス・モデルがここで興味を引く点はまた別のところにある。それは、例えば玄武岩『勧告のデジタル・デモクラシー』に描かれたネティズン(デジタル市民)たちははるか以前のネット消費者たちの下層を、一人一人自発的な「広告代理店」にしてしまうことにある。全員が全員に対して何らかの「広告代理店」として振る舞う。そういう中心なき「広告専制社会」が到来しているのである。
平井玄「九十年代を切断する――パラマーケット論からダンボール・ペインティングへ」『現代思想』vol.33-13、2005年